「人類にとって重要な生きもの-ミミズの話」第13章 高みへと昇るミミズ

人間社会における最大の課題のひとつは「使い終わったもの」をどう扱うか、つまりそれは、自分たちの出す排水や汚泥かもしれない。最終章となる第13章では、この出口問題にミミズがどのように関わっているのかを紹介しながら、私たちの生活インフラを生態系の循環という視点からもう一度見つめ直していく。

ミミズが微生物相をふるい直す

フロリダ州オレンジ郡で行われた実験では、下水処理の副産物であるバイオソリッド(下水汚泥を安定化させたもの)にミミズを導入した。すると、サルモネラ菌や大腸菌などの病原微生物が急激に減少。わずか6日で米環境保護庁(EPA)が定める最上位の衛生基準「クラスA」に達したという。

この「クラスA」とは、EPAが定める安全基準で、病原体や寄生虫卵が人の健康に影響を与えない水準のこと。つまり、農地や公園でも安心して利用できるレベルの清潔さ。研究では、ミミズが病原菌を分解し、微生物相(バランス)を変える力を持つことが明らかになった。この成果は、ミミズが単なる「堆肥づくりの名人」にとどまらず、都市インフラの衛生管理にも応用できる可能性を示している。

ミミズの消化管は、そこを通り抜けるあいだに「増える菌」と「減る菌」をふるい分ける。つまり、ミミズの体は小さな生物学的センサーのように働き、さまざまな物質を選別・再構成する装置のようになっている。ミミズは汚泥やその中の有機物・無機物を飲み込み、通過させながら化学的にも生物学的にも仕分けをしている。消化管の内部は弱酸性から中性に保たれ、酸素濃度も外界より低い。病原菌の多くは酸素を嫌うが、ミミズの体内は極端な無酸素状態にはならないため、菌が暴走せず、静かに抑え込まれる環境となる。

さらに消化管内で分泌される酵素や抗菌性物質がサルモネラ菌や大腸菌を減らし、一方で、それらを分解する力をもつ有用菌(バチルス属)は繁殖しやすくなる。つまりミミズは、ただ土を通すだけの管ではなく、汚れを整理し、次の命に手渡すための選別器官の役割を持っている。

こうした働きを人工的に再現しようとすれば、多段階の反応槽や高エネルギーを要する装置が必要になる。それをわずか十数センチの生き物が、静かに、絶え間なく繰り返している。ミミズは自然が生み出した最小の環境浄化システムと言ってもよい。

薬品なしで水をきれいに-パシフィカ市の再生型プラント

カリフォルニア州サンフランシスコの南、海辺の町パシフィカ。ここには、薬品を一切使わずに下水を浄化し、再び自然に還すという、世界でも珍しい再生型プラントがある。この施設「カレラ・クリーク排水再利用センター」は、1996年に建設が始まり、2000年に本格稼働を開始した。驚くべきことに、そのほとんどの処理設備(濾過層や反応タンクなど)は、すべて丘の地下に埋められている。地上に見えるのは、管理棟や研究施設などごく一部。

これは近隣住民に「下水処理場」を感じさせないための、風景と共生する設計となっている。さらに施設全体に高性能の脱臭システムが導入されており、外部に不快な匂いが漏れ出すことはない。通りかかる人は、そこが下水処理施設であることに気づかないほどだという。こうして、見た目にも匂いにも「下水処理場」とは思えないこの施設では、水の浄化もまた、できるかぎり自然の力に委ねられている。

ここでは、下水や生活排水の処理に化学薬品を一切使わない。代わりに働くのは、微生物と紫外線、そしてミミズたち。この再生プラントの処理システムは、大きく3つの段階からなる。

最初のステージは、SBR法と呼ばれる微生物による生物処理。巨大なタンクの中で、下水中の有機物を「エサ」として微生物に食べてもらう。空気を吹き込んで(曝気)酸素を供給し、ときに止めて(沈澱)静かに層を分ける。こうして、タンクの上層には浄化された水が、下層には沈澱した汚泥ができあがる。

上澄みの水は次の工程へ。細かな濁りを砂濾過で取り除き、最後に紫外線照射で病原菌を殺菌する。ここでも薬品は使われない。水は光と砂と時間によって、ゆっくりと透明さを取り戻す。

一方、タンクの底に残った沈殿物、いわゆる汚泥(バイオソリッド)は、次のステージであるATAD法によって処理される。これは、好気性の微生物が有機物を分解するときに出す自然の熱(自己発熱)を利用し、その熱で病原体を死滅させるという仕組み。高温殺菌を行うこの工程により、汚泥は安全で安定した土壌材料へと生まれ変わる。

化学的な添加物も、外部エネルギーの大量投入もほとんど必要なく、それでいて、最終的に排出される水は海へ戻せるほど清浄だという。まるで、自然がもともと持っていた浄化システムを、人間が模倣し、再構築したかのような施設である。

「捨てる水」から「使える水」へ

こうして再生された水は「再生水プロジェクト」として地域に還元されている。施設の敷地には一般市民向けの給水ステーションがあり、住民はこのリサイクル水を庭木や花壇の水やり用として利用できる。さらに、近隣のゴルフ場、学校、公園の緑地にも再生水が使われ、「捨てる水」だったものが、街を潤す水へと姿を変えている。

とは言え、「下水処理の水を家庭で使う」と聞くと、やはり少し抵抗を感じる人もいる。そこでパシフィカ市は、処理水を直接、人の暮らしに戻す代わりに、湿地へ還すという道を選んだ。それが、カレラ・クリーク湿地の再生プロジェクトである。

カレラ・クリーク湿地再生プロジェクト

このプロジェクトでは、処理を終えた水をただ川や海へ放流するのではなく、一度、小川や湿地帯を通して自然に戻す計画がとられている。この湿地再生プロジェクトの目的は、荒れていた生態系をもう一度復元し、湿地の「緩衝作用」と「濾過機能」を活かしながら、水がゆっくりと自然のリズムを取り戻していくようにすることである。

湿地に根を張るヨシやガマといった植物たちは、窒素やリンといった栄養塩を吸い上げ、水に最後の「磨き」をかけていく。その間に微生物は有機物を分解し、澄んだ水のまわりには小魚や昆虫が戻ってくる。かつて荒地だった場所が、再び生き物たちのゆりかごとして息を吹き返していく。とくにこの地域にしかいない希少なヘビやカエルの生息地としても知られるようになった。

この湿地は、言わば「下水処理の最終仕上げの浄化槽」でもある。再生プラントで紫外線殺菌や濾過を終えた水が、ここぜ自然による最終検査を受ける。湿地の土壌が水を濾過し、植物が残留物を吸収し、微生物群が有機物を分解する。その連携の結果、海へ流れ出す水は化学的にも生態学的にも安定し、人工と自然のあいだに滑らかな橋がかかる。

この湿地はただの環境美化にとどまらず、都市に生きる人々にとっても、防災、教育、癒しの場としての役割を果たしている。大雨のときには洪水を和らげ、春には子どもたちが水辺の生き物を探し、鳥の季節にはバードウォッチャーがレンズを向ける。汚水を扱う場所が、今では「街の誇り」として生まれ変わった見事な成功例である。

ダーウィンの小さな救い

本章の最後は、やはりチャールズ・ダーウィンのエピソードで締めくくられている。著者エイミー・ステュワートは、ダーウィンの晩年の姿を静かに描きながら、ミミズという存在の意味をもう一度、深く問い直している。

晩年のダーウィンは、すでに「種の起源」で世界的な名声を得ていた。自然選択という革命的な思想を世に問うた彼は、人類の知の頂点に立つ存在だった。それでも、人生の終わりに彼の心をとらえたのは、地中をうごめく小さな生き物、ミミズだった。

彼はサセックスの自宅、ダウン・ハウスの庭に立ち、老眼鏡をかけて地面を見つめた。雨が降ると、土の上にミミズが現れる。彼はそれを一匹ずつ拾い上げ、観察ノートに記した。かつて誰よりも高みから自然を見渡した科学者が、最後に目を向けたのは、もっとも低いところにいる生命だった。

晩年の手紙の中で、ダーウィンはこう漏らしている。「もはや長い研究を始める気力も体力もない。だが、ダウンの墓地に眠ることを楽しみにしている」。その言葉には、恐れよりもむしろ安らぎの気配がある。著者は言う、彼は、自らが土に還り、ミミズに分解され、次の季節の土壌の一部になることに、確かな安心を見ていたのではないか。

人の身体はやがて微生物に分解され、ミミズに分解され、細かな粒となって畑に戻る。生と死は線ではなく輪であり、ミミズはその目に見える「継ぎ目」なのかもしれない。ダーウィンにとって死は終わりではなかった。それは、生命の循環に再び加わること。科学の対象だったミミズは、やがて彼にとって「死と再生の象徴」となっていった。

この思索が本書の結びに置かれたことには深い意味がある。ミミズは人間の文明を耕し、森を育て、やがて私たち自身をも分解して大地に還していく。それは自然が人間に仕える物語ではない。むしろ、人間が自然の循環に仕え直すという、静かな価値の転換の物語だ。私たちがこの地表でできることは、その循環を壊さず、少しだけ手を添えること。そしていつか、自分自身の身をもって、その循環の仕事に加わることだろう。ダーウィンが晩年に見つめたのは、人間中心の世界の外側に広がる、もう一つの文明、土の文明だった。そこには、静かで、しかし抗いがたい真理が息づいている。

我が家の庭のミミズもまた、この大きな循環の仲間だと思うと、なんだかとても深く、そして温かい気持ちになる。間違ってスコップで切らないように気をつけないと。

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