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アップルトンの生息地理論
地理学者のジェイ・アップルトン(1919-2015)は「生息地理論」を提唱し「眺望」と「隠れ場」の概念を考察した。それによると人間は本能的に「眺望」という要素と「隠れ場」という要素の組み合わさった場所を好む傾向があるという。視界が開けていながら、身を隠すことができる環境を好む心理である。「眺望」を求める理由は、見晴らしの良い環境にいたいという欲望があるためであり、「隠れ場」を求める理由は、安全のために周囲から身を隠せる環境にいたいという欲望があるためであるという。
「庭仕事の真髄」第3章 種と自分を信頼すること
アップルトンによると、たとえば公園やサバンナにあるような「樹木の生えた草地」は眺望と隠れ場の両方を備えているが、こうした本能的に生存に有利な特徴を備えた場所は、美的な観点からも心地よさを感じることができるのだという(この発想、とても面白い)。すなわち、眺めが良く、周囲から守られてもいる「庭」という空間は、眺望の点でも隠れ場所という意味でも私たちの本能的な必要性を満たしている(全てのタイプの庭が当てはまるわけではないと思うけど)。
PTSDと園芸療法
洋の東西を問わず文化も時代も超えて、庭は世の中の騒がしさや心のざわめきからも離れることのできる聖域となってきた。このような環境は特にPTSD(心的外傷後ストレス障害)から回復しようとしている人々には有効な働きを持つ。
PTSDに苦しんでいる人は恐怖に乗っ取られたような感覚を毎日のように感じ、そのトラウマ的記憶はフラッシュバックとして暴走するため自分で制御することがしばしば難しい。こうした日々を繰り返していると、心の中の安心感が蝕まれて行き、世界がますます安心できないものに感じられ、怖いことが再び起きるのではないかと常に警戒をするようになる。
「庭仕事の真髄」第2章 緑の自然と人間の中にある自然
トラウマ治療の専門家であるジュディス・ハーマンは、トラウマを治療するための第1歩は「安心感の再獲得」であると提唱している。
もしも安心感が十分に確保されていなければ、どのような治療も成功しない。これはPTSDの患者に限らず誰にでも当てはまることである。誰であれ、安全だと感じる時にだけ防御をやめることができる。また、防御をやめる時にだけ、私たちは新しい経験を受け入れることができる。安心感の獲得を抜きにして心は成長しないし、変わることもできない。つまり、園芸療法では、安全でまわりを囲われた庭、それ自体が治療の手段と考えることができる。
イギリスのサリー州(ハリー・ポッターに出てくるハリーの意地悪な親戚「ダーズリー家」が住む)にある国防省のリハビリテーション・センターでは、PTSDに苦しむ患者に園芸療法のプログラムを行っている。参加者の多くは頭部の負傷や手術による手脚の切断からの回復期にあり、それぞれの患者に合わせた個別のプログラムが設定されている。
種まきから収穫までを通じた活動が計画されており、患者たちは香りのよい花や植物を育てることで心を鎮めたり、気持ちを上向きにさせることができているのだという。ボストンサフォーク大学のグラッドウェルによる研究では、自然の多い環境に接すると数分の間に心拍数や血圧に変化がみられ、ストレスホルモンのコルチゾルの値も20〜30分後に低下するという。
ガーデニングは心の回復にどのような影響を与えるのか
PTSDの症状を持つ患者にとって「何かに集中する」ということは時に非常に困難な場合がある。トラウマは過去が常時現在に侵入してくるため、心が経験を時間的に処理するのを邪魔する。つまり、何かに集中して取り組もうとした場合にも、そうしたトラウマ的な記憶や情動が集中を妨げてしまうのである。
植物の世話をすることは本質的に心を今に向ける活動である。先のリハビリテーション・センターでも、はじめはやっていることに上手く集中するのが難しいと感じた患者たちも、練習を積んでいくことで、どんな作業も心をこめて集中して進めることができるようになるのだという。
庭仕事は現在の瞬間に集中し没頭するので、マインドフルネス的な作用を持つと言えるのかもしれない。作業の途中でネガティブな思考や記憶が入り込んで来た場合でも、それらを追及せず、評価もせず、単に認識するだけで、注意は現在の目の前の作業に戻される。患者たちがこうした能力を回復させることにより、過去の経験や記憶をしまうべき場所にしまうことができるようになるのだという。
陽に当たり、土を触ることの効果
屋外で過ごす基本的な利点は日の光に当たることだと著者は主張する。私たちの体は皮膚の表面で太陽光線を受け、ビダミンDを生成する。さらに太陽光線中の青色光は睡眠と覚醒のサイクルを決定し、脳内のセロトニンの分泌量を調整している。
セロトニンは幸福感や気分を制御し、共感能力を促進させる。PTSDの患者はセロトニンの分泌システムに機能障害が生じていることが知られており、ストレス反応が誘発されやすい状態となっている。脳内のセロトニンはすべて脳幹の深部に位置する縫線核という二つの神経細胞の束から発生しており、ここから脳の様々な部位にセロトニンを供給している。
進化論によるとヒトの脳は非常に速いスピードで進化し、大脳皮質は8倍の大きさに増加したのに対して、縫線核は同じサイズに止まっていると指摘されている。つまり、私たちは構造的にセロトニンの減少に弱いと言えるのかもしれない。その解決策として、祖先たちは古代から日の光の下で、運動や土との接触を通してセロトニンのレベルを上げてきたのかもしれない。
運動にはセロトニンと同様に気分を高揚させることのできる、エンドルフィンやドーパミンといった神経伝達物質の量を増やす効果がある。またBDNF(脳由来神経栄養因子)の供給を促進し、セロトニンとBDNFが互いにその作用を強化する働きもあるという。
スタンフォード大学の神経科学者ロバート・サポルスキーは霊長類のストレス研究から、運動による筋肉の代謝そのものが抗ストレス効果を生み出すことを明らかにした。運動でストレスが減少するという仮説は「そうなる気がする」というような気分だけの話ではなく、実際に脳内の炎症性変化と関連する「キヌレニン」という代謝物質を減少させるようだ。
庭で土を掘り返した時に感じる匂いは、「ゲオスミン」と呼ばれる有機化合物によるものらしい。ゲオスミンは雨によって土中から大気中に拡散し、独特の雨上がりの匂いのもとになるのだとか。土壌のバクテリア、放線菌類の活動を通じて発散され、人間の嗅覚器官はこの匂いに非常に敏感に反応する。神経科学者クリストファー・ローリーは、土壌中にみられる「マイコバクテリウム・バッカエ」と呼ばれるバクテリアが脳内(マウスの)のセロトニンレベルを上昇させることを発見した。
オダマキのタネまきから開花まで
研究では始めにマウスにバッカエを注射し、そのマウスをストレスがかかる状況に置いた。するとそのマウスは他のマウスに比べてストレスに対する回復力が向上することがわかった。他の研究では、バッカエを摂取したマウスは他のマウスにくらべて迷路テストの解答時間が半分になったという。
人でのバッカエの重要性はまだ明確にはなっていないが、今後の研究によってはストレス耐性を予防的に高めるようなストレス・ワクチンのようなものが開発される可能性もあるかもしれない。ちなみに、マイコバクテリウム・バッカエは堆肥で豊かになった地中で育ち、雑草を抜いたり土を耕したりする時に普通に吸い込んでいるらしい。この研究結果はけっこう衝撃的で、おもしろくもあり、ちょっと怖くもあり・・・。
精神科医カール・メニンガーは、第二次世界大戦後に心的外傷を受けた復員兵士の治療にあたった際、患者たちが生きることに対して再び心を開いて行くのに、植物との活動がどれほど力になるかを目の当たりにして深い感銘を受けたのだという。メニンガーは精神科医として現役の間、精神医学的治療の補助的な活動として、園芸療法を推進し続けた。その活動の中でガーデニングを「土に、母なる自然に、美に、成長と進化のはかり知れない神秘に人間を近づける活動」と述べている。