「庭仕事の真髄」第9章 戦争とガーデニング

戦場で行われたガーデニング

第一次大戦中の西部戦線(ベルギー南部からフランス北東部)では、兵士や従軍司祭、医者や看護師たちが長引く戦争の期間中に庭を作った。それらは大小様々な規模で、花のある装飾的なものから、食料生産が中心的なものもあった。

「庭仕事の真髄」第8章 ラディカルな食料栽培

イギリス軍第21救護所に所属していた司祭のジョン・スタンホープ・ウォーカーは1915年12月にソンム川沿いへ着任した後、翌春から庭を作り始めた。1916年6月から「ソンムの戦い」が始まり、救護所は犠牲となった兵士たちで溢れた。千人もの重傷を負った兵士たちが連日運びこまれ、3ヶ月の間にそのうちの九百人を埋葬した。141日間戦闘が続き、ソンムの戦いは歴史上でも最も悲惨な戦いの一つとなった。

フロックス ヌンムラリア オーレア

ウォーカーが家族に宛てた手紙からは、戦場の凄惨な状況が克明に描写されている。彼はこのような環境で働き続けていることで、断続的に酷い無力感に襲われた。回復期にある兵士たちも彼の礼拝に出席しようとはせず、式の説教に対しても無関心であった。しかし、彼の作った庭には大きな関心が集まり、種をまいたマメ類やカボチャなどの野菜、美しい花々に兵士たちは喜んだ。

ソンムの戦いの塹壕内の様子(ウィキペディアから引用)

1916年8月、ウォーカーと同僚は戦場跡地のドイツ人防空壕を訪れた。塹壕の一つはスイスの山小屋風に木材が壁に貼られ、地面にはカーペットが敷かれていた。ほかにもベッドがしつらえてあるなど、戦場とは思えぬほど居心地の良い空間が作られていた。

防空壕の外側には庭があり、オーリキュラや低木、バラなどが植木箱や鉢に植えられていたのだった。ウォーカーが作った庭は戦線の後方にあったが、彼が発見した丁寧に手入れをされた「庭」は戦場の最前線にあったのだ。このような庭つきの塹壕は当時としては決して珍しいものではなく、敵味方両サイドの兵士たちが作っていたと言われている。

季節外れに咲いているピンクのアナベル

アレクサンダー・ダグラス・ギレスビー

スコットランドのアーガイル・アンド・サザーランドハイランダーズ連隊で軍務についていたアレクサンダー・ダグラス・ギレスビーは、1915年2月にフランスに到着した。3月には古い塹壕の土手に生えていたニオイスミレや他の花を移植して庭を作った。ドイツ人が捨てた薬莢で花鉢を作って植え、防空壕の外に飾ったりもした。ギレスビーと彼が指揮をする小隊は、色々な場所の塹壕へと移動させられたが、彼らはそのほとんどの場所で庭づくりを行なった。

種まきパンジー・ビオラの成長と開花まで

彼は自分の両親に頼んだものや他の隊員の元に送られてきた草花の種(ナスタチューム、マリーゴールド、ポピー、ストック)をまいた。時には戦場近くの廃墟になった村から、アラセイトウ、シャクヤク、パンジーなどを塹壕ガーデンに持ち帰ってきたこともあった。塹壕ガーデンはそれらの花々で花盛りとなり「水やりが忙しい」と家族に宛てた手紙にも書いているほどであったという。

6月半ば、彼の小隊はドイツとの戦線に非常に近い所へと移動になった。そこは爆撃の度合いから言って、ガーデニングは不可能なところだったが、数週間後には前にいた塹壕へと後退することができた。そこは戦線から320メートルしか離れていなかったが、両軍の塹壕からはギレスビーたちが作った赤いポピー畑を見渡すことができた。塹壕の中にはマドンナリリーが咲く素晴らしい光景も見ることができたという。

ポピー(上野ファームで咲いていたやつ!)

1915年9月、ギレスビーは弟のトムが死ぬ直前に過ごしたという村に到着した(ギレスビーがフランスに到着する直前に弟は戦死している)。数マイル歩いたところで大きな邸宅を発見し、そこにまだ人が住んでいることを知った。

その家のベランダから見た庭の眺めは、弟が最後に家へ書き送った葉書に描いてあった絵と一致していた。ギレスビーはその家に住む女性に、弟を親切にしてくれたことの礼を言った。この家の庭は「とても素敵な場所で、池にはアヒルやカモが泳いでいて、花壇がいくつもあった」とギレスビーは書いている。この家の庭は彼にとっても塹壕を出て過ごした最後の休暇となった。

冬が近づいて来ている

その後まもなくギレスビーは26歳で戦死する。死ぬ少し前、彼は前隊長に戦場跡地の再生活動を提案する手紙を書いている。平和が訪れたあかつきには、軍事的中立地帯に樹木や果樹を植え、スイスから英国海峡までの巡礼の道を作るというものであった。彼は「この道が世界一美しい道になること」そして、人々がこの道を歩きながら「戦争の意味を考え、学ぶこと」ができるのではないかと構想した。

ユーステイシア・ヴァイ

塹壕ガーデン

戦争が三年目に入った頃、軍は自発的に始まったガーデニング活動を活用するようになった。戦線の後方に大規模な野菜畑がつくられ、1918年の西部戦線では新鮮な産物を自給自足できるようになった。塹壕ガーデンでは、石油缶は水やりのじょうろへと作り変えられ、銃剣は土地を耕す道具となった。

歴史家ケネス・ヘルファンドは庭には潜在的に反戦へのメッセージがあると指摘している。彼は著書「挑戦的な庭(Defiant Gardens)」の中で「平和とは単に戦争がないというだけではない。胸を張って主張するものだ。庭は単なる避難や小休止ではなく、積極的に目標を、手本を示すものだ」と書いている。

戦時中のガーデニングは、生きることを改めて認識することにつながる。塹壕で恐怖に直面していた多くの兵士たちにとって、ガーデニングは生存のための戦略だった。花や野菜を育てることは、恐怖と絶望に対抗するための兵器となっていたのである。

アスター リトルカーロウ

祖父テッドの生涯を振り返る

この章の後半で、著者は第1章で紹介した祖父テッドについて再び考察をめぐらせている。テッドの経歴について簡単に振り返ってみると、

  • 1910年、15歳で英国海軍に入隊。
  • 潜水艦の無線通信士となる。
  • 第1次世界大戦に従軍。
  • 1915年、トルコ近海で潜水艦座礁、捕虜となる。
  • 3年半もの間、過酷な環境で強制労働。
  • 仲間たちと小舟で脱走。23日間漂流。救助される。
  • 故郷の町に帰ってくるが別人のよう。
  • 心身面は徐々に回復したが、精神面の不調は続く。
  • 1919年「神経衰弱」の診断を受け海軍を除隊。
  • 1920年、ソールズベリー・コートで園芸のトレーニングに参加。
  • 1923年、カナダで庭師として働く。
  • 2年後、イギリスに帰国。郵便関係の仕事に就く傍で農場を営む。

第9章では、これらのテッドの壮絶な半生がとてもドラマティックに描かれており、イメージを浮かべながら読むことができた。

アスター リトルカーロウ

戦争後遺症への園芸の効果

戦争の恐怖や栄光の数々は記録され、後年にも多くの資料が残されているが、その後の長い痛みを伴う回復の過程についてはあまり語られることがなかった。心的外傷を受けた心は、一度に多くの刺激へと対処することができず、急で予測していなかった何かに遭遇すると、フラッシュバックや精神的なシャットダウンを引き起こしてしまうこともある。そのため、安心感を担保することのできる「シェルター」の存在が重要であり、新しい刺激や経験も恐怖を誘発しないような、心がそれらを簡単に消化できるようなものであることが望ましい。

台風が来る前に庭の花を摘んで楽しむ

第1次大戦中、スイス人内科医のアドルフ・フィッシャーはイギリスとドイツの戦争捕虜収容所を訪問した。彼は捕虜となった人々に特徴的に見られる、混乱、記憶の欠落、意欲の低下、強い不安などの症状を「有刺鉄線症候群」と呼んだ。これらの持続する症状は、捕虜になったことの恥の意識や生き残ったことへの罪悪感といった心理的な葛藤が背景となっている面もあり、神経衰弱の1つの形式であると分類された。

戦争捕虜から解放され、故郷へと戻ってきた人々はその後も長く苦しみ続けた。第1次世界大戦の戦争捕虜に関する長期的な調査結果は特に少なく、1920年代から1930年代にかけての彼らの死亡率は、その他の時期の復員兵と比較して5倍も高いことが分かっている。栄養不良と感染症による身体的な不健康状態と抑うつや躁鬱、不安障害などの精神的な不調が重なり、自殺に至ることもあった。

こうした症状の人々が以前のようにとは行かないまでも、少しでも回復できるよう支援する場合、できるだけ早く家族と合流することの他に、何らかの仕事を行う必要があった。1920年代には彼ら復員兵の窮状や病気、失業率の高さに関しての国家的関心が高まりを見せ、彼らを新しい役割につけるためのリハビリテーション計画が企画された。イギリス労働省とカウンティ・ホームステッド協会などの慈善団体は、復員兵たちを対象としたさまざまな職業訓練の計画を考案したが、その多くが園芸や農業に関するものであった。

ベロニカ スピカータ

農業が復員兵の回復に有効であることを証明したのは、アメリカ人内科医のノーマン・フェントンだった。1924年から1955年にかけての時期に神経衰弱として診断し、治療にあたった750名の症例を調べた。彼の研究では、戦後7年が経過しても患者の多くがまだ健康ではなく、精神の不調に苦しんでいることが分かった。そして家に戻った際にどの程度の支援があったかによって、回復の度合いに大きな違いが出ることを明らかにした。

フェントンは復員兵たちが市民生活を送る際に、最も適切な職種・職業は何かという点を論じている。彼の検討によると、製造業やその他の仕事で働くことが難しい場合でも、農業分野での労働では再適応に成功する人が多く、自立に向けたより良い効果が表れ、症状が大幅に軽減する事例も多くあるとのことであった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です