本書も今回の第10章を入れて残り4章となった。ちょっと久々にとても充実した読み応えのある本だったので、ここまで来た!という思いと、もうすぐ終わってしまう・・という寂しさとが混ざった気持ちになっている。そして、この第10章についてはタイトルからも読み取れるように「生と死」がテーマとなっており、これまでの他の章のように振り返りやまとめをするのが非常に難しい。
「庭仕事の真髄」第9章 戦争とガーデニング
ここでの著者による生と死に関する深遠な考察は、これまでの章でテーマ毎に見てきた内容の積み重ねを凝縮したような内容となっている。本書が植物や園芸に関する本であるとは思ってはいたものの、そしてそこからの延長として心理学や精神世界に関する内容についても取り扱っているだろうとは予測していたけど、生きることや死ぬことといったテーマにまで踏み込むとは想像していなかった。
この章は以下の6つのテーマ(セクション)で構成されている。
- 人は死すべき運命にある-生命の連鎖
- 死と宗教と植物
- 死の恐怖からの再生
- 老いと庭仕事
- フロイトの花への愛
- 終生、庭とともにあったフロイト
目次
私たちは自然に対して、一つの死を負っている
1つめの「人は死すべき運命にある-生命の連鎖」では、人と自然との繋がりについて考察している。よく言われる話として、ヒトという一生物を構成しているのも、この宇宙や地球を構成しているのも同じ物質であるから、それがずっと循環しているというがある。
「人は亡くなると土に帰る」という表現もあるけれど、この世に生まれてから死ぬまでの間は、物質が一時的に「生命」という形で構成され、維持されるということになるのだけど、ある意味では生まれた瞬間に死ぬことが宿命づけられているとも言える訳で、、我々の命は広大な生命の連続体の一部だと考えることができる。
「庭仕事の真髄」第7章 花の力
精神分析の創始者であるフロイトは6歳の時にこの考えに触れたという。フロイトの母は「人間は誰も皆、大地からできている。だから大地に戻らなければならないのだ。」と彼に説明したという。そして「お前は自然に対して、一つの死を負っている(必ず死ぬのが自然との約束)」とも言ったとのこと。人は誕生から死までのプロセスを自然の流れとして説明してきた。古代ギリシャ神話では、地上の最初の人間が土と粘土から形作られたと伝えている。人の命は土とも植物とも違っているけれど、同じものから作られていることは確かで、元居た場所へと戻っていく。
古代エジプトでの「死」とは
次の「死と宗教と植物」では、古代エジプト文明における死についての捉えと植物の関係について考察している。よく知られているように古代エジプト文明には「死後の世界」と「死者の復活」という信念があり、この人間の復活と植物の種子の発芽が重なるものとして理解されてきたようだ。
古代エジプト時代のルクソール西岸の墓には「彼の死せる身体が種のように死者の国で芽を出しますように」と刻まれているのだとか。実際に遺跡の中には本物の種を墓所の中にまいたところもあり、1920年代に墓が発掘された時には、大麦の新芽が7センチほど成長して枯れたものが見つかっているのだとか。
庭を通して死と向き合う
「死の恐怖からの再生」では、アメリカの詩人スタンリー・クニッツ(1905-2006)について紹介している。クニッツの父親は彼が生まれる前に自殺しており、10代の頃には義理の父親が心臓発作で突然亡くなっている。これらの衝撃的な出来事はクニッツにとって死を強烈に意識させることとなり、彼は眠りに落ちることですら恐怖に感じたという。彼は「私のまわり、家族の中にはたくさんの死があったので、それと和解しなければ、心理的な苦しみが続く。あの恐怖とともに昼も夜も暮らしていくのは不可能だった」と後に記している。
美女なでしこの種まきから成長と開花
彼は義理の父親の死後に農場で働き始めた。そこで土を耕すことから、自分自身とそれ以外の自然界が繋がっていることに気づき、成長と衰退が循環していること、そしてそれを見守ること、つまり、生命の存在には死は絶対に不可欠なものであると理解したという。50代の終わり頃には、マサチューセッツ州ケープコッドの自宅に庭を作り始めた。
ここでの活動は若い時期に感じていた死への恐怖から心の平和を回復するかのような効果があった。庭にあるものは死んでいくという事実からは逃れられない。彼は私たちが死すべき運命にあることを「厳しい現実、私たちが必ず考えに入れておかなければならない最も厳しい現実」と表現した。クニッツは庭の花が咲く様子を見て「人間の経験を圧縮した寓話のように見える」と言い、堆肥の山でさえも「人間は皆、堆肥の予備軍である」という言葉を残している。
私たちの命は世代を超えて続いて行く
「老いと庭仕事」では精神分析家であり「心理社会的発達理論」を提唱したエリク・エリクソンの理論を紹介している。若い頃には全然花とか庭とか興味がなかったのに、一定の年齢を過ぎると畑仕事や花に関心が出てくるという話は一般的によく聞く話だけど、エリクソンによるとこの現象は「ジェネラティビティ」と言うらしい。
人生の中〜後半でガーデニング(に限らないけど)などの活動生、もっと言うとある種の「生殖生」の高い活動を継続して行うことは、精神的な健康にとって重要とのこと。「生殖生」という言葉のここでの意味が微妙によく分からないのだけど、次の世代へと技や知識を伝承していくような、自分自身を「個」としてのみ認識するのではなく、自分の前にもそして、その後にも生き続ける「なにか」を伝える営みのことを指すようだ。自分1人の人生を超えた視野を持つことが重要で、逆にこうした世代を超える時間の経過に対して「何の意味があるのか」と感じるようになってしまうと、人生は「停滞」の状態に陥ってしまうのだとか。
ここのセクションでは老年期におけるジェネラティビティの重要性について、具体的な事例や研究データを紹介している。アトゥール・ガワンデは著書「死すべき定め」の中で、生命の末期が近づいている時、人生に意味を与えてくれるものを持っていることが、いかに大切であるかを論じている。
ニューヨークのチェイス・メモリアル介護ホームでは、施設内に野菜畑や花壇が作られ、ウサギやインコ、猫や犬などのペット動物が導入されると、そこに住む高齢者たちに様々な劇的な変化が見られた。ほとんど口をきかなかった人たちが交流をするようになり、活動的でなかった人も新しい活動へと没頭するようになった。不安や攻撃性が高い傾向にあった人も穏やかに楽しそうに過ごす時間が増えたとのことである。さらにその後2年間の追跡調査では、この介護ホームがその他の一般的な施設と比べて、入居者の抑うつ症状が少なく、死亡率も15パーセント低下し、さらには薬の処方量が半分にまで減っていることが分かった。
むかし、小学生の高学年か中学生の時に初めて映画「ゴットファーザー」を見て、当時は内容が難しくストーリーはほとんど追えていなかったのだけど、いくつも印象的なシーンがあってすごく刺激的だった。馬の首のシーンとか、ソニーがハイウェイで蜂の巣とか、八百屋の前でドン・コルレオーネが襲撃されるところとか、他にも沢山あるのだけど、なぜか後半でマーロン・ブランド演ずるドン・コルレオーネが孫と遊びながら畑でバタンと倒れて死ぬシーンが一番鮮明に記憶に残っている。そしてなぜか、中学生くらいの頃から今現在に至るまで「死ぬ時は自分もこうやって死にたい」と思っていて、中学生当時は園芸に全く興味がなかったのに、何故だか映像を見ては幸せな死に方だなあと思ったものである。
暮らしの中の小さな喜びに気づく
この章の後半部「フロイトの花への愛」と「終生、庭とともにあったフロイト」はフロイトの晩年についての詳細な記録となっている。フロイトが花や庭を愛する人であったことはこれ以前の章でも紹介されていたけど、病気が進行して身体が思うように動かなくなってからも庭への興味は尽きなかったという。このことに関連して、この本での文章をそのまま引用したい。
人生から締め出される時、未来がもうないという感じが最もつらい。小さなものを最大限に生かし、楽しみにできる些細なことをいろいろ見つける術が必要だ。この戦略はモンテーニュも使っている。老年になって失ったものに効果的に対処するには「悪いことの前はさっさと通り過ぎて、良いことにしっかりとつかまっているのがよい」という。日課にしていた果樹園の散歩中に、心がネガティブな思考にはまってしまったら、モンテーニュは意識的に自分の周囲の風景に注意を引き戻すようにしていた。暮らしの中の小さな喜びの種はじつはそんなに小さいものではない。それがそこにあって当たり前だと考える習慣になっているだけなのである。
庭仕事の真髄 第10章 p.279
庭という避難所で、人間は最も慈悲深く美しい母なる自然に囲まれる。信頼できない敵意に満ちたあらゆるものから守ってもらえる。そのような平和な瞬間、人は世界とうまく折り合えているのだ。死への備えが必要となった時、人間の心理は休息できる場所を求める。フロイトは庭にその場所を見出したのだった。
庭仕事の真髄 第10章 p.287